記憶の場所



 二ヶ月ぶりに会う知己は見慣れぬ連れを伴っていた。革鎧を身に付け腰に剣を佩いたその無骨な戦士は、剣の柄に手を置いて周囲に視線を向けている。
「雇ったのさ」
 荷馬車から大きな麻袋を引っ張り降ろし、こちらに渡しながら彼は言った。
「護衛無しじゃ気楽に旅もできない世の中になっちまったなあ。ここに来る途中も二回ばかり襲われてな……城下の方じゃ傭兵は重宝がられてるよ」
 男は適当に相槌を打って麻袋を受け取った。その中身は少しの日用品、後は大半が酒である。小屋の戸の脇にそれを置き、こちらも前々から用意していた炭の袋を担いで荷台に積む。質の良い炭は城下でも需要はあるし、携行品として旅人にも好まれる。炭と引き換えにするのは少しばかりの生活の糧と世間の情勢。二ヶ月に一度、ブランカで道具屋を営む友人にこうして訪ねてもらうのは、二十年以上前から変わらない習慣であった。
 積み込みを手伝いながら友は色々と話を繋いだ。年毎、日毎に魔物が増え、聞ける話はどれも耳に楽しくないものが多い。
「大丈夫なのか、この辺は」
「今はな」
「でも時々は出るんだろう」
「ああ」
 ぶっきらぼうな男の返答に、友人は軽く息を吐いた。
「まだ山を降りる気にはならんか?」
「ならねえな」
 最後の荷を積み終わって、男は煤けた手をズボンの尻で拭う。
「魔物相手にちびっちまうんなら次から来てくれなくても構わないぜ」
 御者台の横に腰を下ろしていた傭兵が憮然とした顔でこちらを見た。
「嫌でも来らあ。お前が野垂れ死んだら夢見が悪くてかなわねえからなあ」
 友人は苦笑して来た時よりも重くなった馬車に乗り込んだ。まあ元気でやれや、と声を掛けて馬に鞭を入れる。泊まっていくような事はしない。用事が済めばすぐ帰るのが常だったし、男が話下手で、他人の為に時間を奪われる事を好まないのは長い付き合いで知っている。たまに顔を見せ合って、無事が確認できればそれでよかった。
「二月したらまた来るよ」
 それもまたいつもの台詞だった。



 男は友人の馬車が見えなくなるまで見送り、そして小屋に戻った。貰った荷物を開いて、然るべき場所にそれぞれを収める。暖炉の前に寝そべっていた犬が起き上がり、足元に纏わり付いてくる。毛は強く、体躯は大きい。元々は野犬だったが、魔物に襲われて怪我をしているのを助けてやって以来懐かれていた。今では番犬のように男の傍にいる。
「おめえが食うものは入ってねえ」
 犬の頭をひとつ撫で、刻み煙草の入った木箱を取り出すと袋の中身はそれで最後だった。酒は暖炉の上に並べて置かれた。机から煙管を取ってくると、早速煙草を詰めて暖炉に残った灰から火を移す。男は犬を伴って再び表に出た。
 小屋のすぐ脇には小さな畑があり、その側の大きな切り株に腰掛けて一服するのが男の数少ない楽しみだった。鼻から煙を吐きながら、見慣れた庭と森に目を向ける。薄曇りの空は昼の明るさを落ち着かせ、木々の緑を深く見せる。見慣れたといっても、飽きてはいない。彼は何よりも森が好きだった。
 男は今はもう初老の域にあった。短く刈った頭髪は白いものが混じり、まばらな灰色に見える。だが森で暮らすその身体は今だ逞しい。服の下の筋骨は壮年の時からさほど衰えているようには見えなかったし、彼自身年少の者に引けを取っているつもりもなかった。もっとも、比べるべき者など身辺に居はしないのだが。
 かつては細工職人として街で暮らしていた事もあったが、生来の気性で他人との諍いが絶えなかった。妻を亡くしてからは息子を連れて山に戻り、それからずっと樵としてこの森で過ごしている。小屋は息子と二人で建てた。その息子とも死に別れてからは、会う人間といったら定期的に訪ねてくれる先程の古い友人と、道に迷った旅人ぐらいなものである。だが魔物が頻繁に現れ始めて以降、この付近で旅人の姿を見ることは無い。特に人恋しく思うわけでもなく、日々表情を変える森の中で穏やかに暮らしているつもりだった。
 詰めた煙草が尽きて、最後の煙をたなびかせ男は髭を扱いた。

 突然、足元に伏せていた犬が飛び起き、低い唸り声を上げ始めた。
「どうした」
 北側の森の奥を見据えたまま動かない番犬とその視線の先を交互に見て、男は小屋に戻った。煙管を置き、壁に掛けた弩を取る。狩りで使い込んだものだが、近頃はこれで魔物を射る事もあった。しかし狩りや木を伐りに出た先で魔物に遭う事はあっても、小屋の近くまで寄ってこられた事は今までに無い。忌々しげに息を吐く。
 短剣を腰に差し、弩に矢をつがえて外に出た時、犬が吠えて森の茂みに飛び込むのが目に入った。走り寄り、弩を構えながら茂みに入る。すぐにでも射殺すつもりだったが、威嚇の唸りを上げる犬の前で立ち竦んでいるのは魔物ではなかった。

 森の薄暗がりとはいえ、それはどう見ても人間の男。年の頃は十五、六ぐらいだろうか、まだ子供だ。怯えたように見開いた眼の青が鮮やかに見えた。犬に向かって突き付けた剣は刀身が途中で折れている。着ているものも泥に汚れ、あちこちが破けたり裂けたりという有様で、城下の物乞いだってもう少しましな身なりをしている、と男は思った。
「なんだ、おめえは」
 少年はびくりと体を硬直させ、まるで初めて人の言葉を聞いたのではと思わせるほどに驚いた顔をした。震えた唇が開き、そこから漏れた声は酷く掠れていた。
「あ……」
 それ以上言葉は出てこない。旅人にしては様子がおかしい。男は訝った。
「おめえ、魔物か?」
 馬鹿馬鹿しい問いだと我ながら思ったが、少年は神妙な顔で首を横に振った。どうやら言葉は分かるらしい。
「旅のもんか? どっから来た?」
「村が、」
 そう言った途端、少年は剣を取り落としてその場に膝から崩れ落ちた。
「おい」
 傍に寄って抱き起こすと、気を失っているようだった。一瞬思案したものの、男は少年を背負い上げ、小屋に向かって歩き出した。日が傾き始めた空を眺め、また溜息を吐く。今日の仕事は諦めなければ。
「厄介な拾い物をしちまったな」
 足元を並んで歩く犬がくうんと鼻を鳴らした。



 
 少年が目を覚ましたのは二日後の朝だった。
「……あの」
 暖炉で湯を沸かしているところに、後ろからおずおずと声が掛けられ、振り返ると、少年が寝台に身を起こしてこちらを見ていた。寝台の足元の床では犬が寝そべり、顔だけ上げて少年を見ている。唸るようなことは無かった。男は湯気の立つ薬缶を削り出しの机に置き、軋む丸椅子に座った。
「やっと起きたのかい」
「すみません」
「べつに謝れとは言ってねえ」
 少年は少し俯き、すみません、とまた呟いた。
 裸の上半身は日に焼けて健康そうに見えるが、今はあちこちに布が当てられ、包帯が巻かれている。痣や擦り傷がほとんどで、魔物による傷もあるようだった。致命傷が無かったのが救いだ。
「運が良かったな」
「あの、ありがとうございました」
 少年は頭を下げた。いや、と男は鼻を鳴らす。
「野垂れ死なれても夢見が悪ぃからな……飯は食えるか」
 ほんのわずか、少年は頷いた。

 麦と米の粉を湯で溶いて、細かい干し肉を混ぜた粥を出してやる。それを口に運びながら、少年はぽつりぽつりと己の身に起きた事を話した。村が魔物に襲われ、自分ひとりが生き残ったこと、行くあても無いままとにかく何日も人里を捜し歩いたこと。北の山脈を目印に、ひたすら南に向かって来たという。
「じゃあおめえ、北の渓谷のもっと向こうから来たってえのか」
 はい、と力無くもはっきりと少年は答えた。男は軽く頭を振った。いくらなんでも北の大森林は人の手が及ぶような深さではない。何年か前、興味本位で数日かけて分け入ってみた事があるが、その木々の古さや濃さは森に慣れ親しんだ男でさえも足を進めるのを躊躇わせるものがあった。信仰心など微塵も持ったことがなくとも、重苦しい神聖さを感じた気がしたものだ。
「あっちは人が住むようなところじゃねえ……」
 信じられないような男の声色に、少年は辛そうに顔を上げた。
「嘘じゃない」
 粥に沈んだ匙に目を落とし、
「村は本当にあったんです」
 それは自分に言い聞かせるような小さな声だった。
 この森に住むようになって、北にそんな村があるという話は聞いた事がなかったし、その村の住人であるという人間にも会った事はなかった。だが少年の表情は真剣で、嘘をついているようには見えない。なんにせよ気の毒な目に遭ったものだと思う。
「他に身寄りはいねえのかい」
「いえ―――あの」
 少年は言葉を切り、少し迷った後に切り出した。
「デスピサロ……という人を知りませんか」
「知らねえな。知り合いか」
 聞き返しても否定も肯定もせず、少年は俯いた。
「人探しをするならでかい街に行くんだな。ブランカでもエンドールでもよ」
 少年はその名を知らないのか曖昧に頷く。
 煮え切らない会話に苛々もし、また聞き返すのも面倒で、男は殆ど空になった器を少年の手から取り上げた。
「調子が出ねえならまだ寝とけ。おめえみたいなガキは一晩寝とくのがいちばんだ」
 突き放した言い方に少年は困ったような顔をする。
「怪我が良くなるまでは置いてやらあ。おれは仕事があるんだ。もう放っとくぞ」
 犬を伴って部屋を出る視界に、そのままの表情で頭を下げる少年が見えた。




 寝台は少年が使っているので、干草と毛皮で作った簡単な寝床で寝起きする。死んだ息子の寝台は何年も前から物置代わりになってしまっていた。代わります、と言われたが、男は請け合わなかった。
「怪我人がそんなこと気にするんじゃねえ」
 三日もすると、少年は多少足を引きずりながらも出歩けるようになった。森から切り出した丸太を運んできた男に、世話になっているぶん手伝いたいと言う。寝たきりでもないならと、男も小屋周りの作業を手伝わせる事にした。
 村でもよく任されていたのだろう、男の目から見ても少年の仕事ぶりは慣れた風だった。手際良く薪を割り、脇に積んでいく。丸太を切り分ける鋸を挽く手を休め、男はいつもの切株に腰を下ろして煙管を銜えた。
 ぱしん、ぱしんと軽く乾いた薪の割れる音が小気味良い。鉈の一振りごとに翠の髪があざやかに揺れた。何の変哲もない少年の、唯一変わった部分である。きびきびと動く若い背を見やりながら、男は煙を吐いた。
 

 薪割りは息子の日課だった。
 父の方を振り返って、親父、終わった、と掛ける声を毎朝何年も聞いた。当人は気にしていたようだったが、母に似た柔らかい声音は耳馴染みが良かったものだ。
 独り立ちしたい、と息子が小屋を離れたのは二十年ほど前の事だったろうか。男はその時おう、と答えただけで引き止めはしなかった。町へ下りるのか、または他の森で仕事場を構えるのかは聞かなかったが、時々は顔を見せに来い、とだけ言った。息子は微笑んで頷き、それが生きた息子を見た最後だった。
 遠出の狩りで、焼け落ちた荒ら屋を見つけた。そこも今は草と若木に覆われ、何があったのかを窺わせるものは何も無い。亡骸は小屋の裏に運んで埋めた。小さく立てた墓標にはずいぶん苔が増えた。


 と、不意に少年が振り向く。
「父さ―――」
 言葉を切った少年は目を見開き、男も思わずその顔を凝視した。彼は口走った言葉に自分で驚いているようだった。だがその表情はすぐに曇り、口元が悲しげに笑う。子供らしくない顔だ、と感じた。泣くのかと思ったが、一瞬瞳が揺らいだだけで涙は見えなかった。
「終わりました」
 少しだけ掠れた、柔らかい声。
「おう」
 少年の足に犬が身を寄せてきて、彼は腰を下ろしてその逞しい首筋や腹を撫でてやった。古い友人の道具屋にも懐かない頑固な獣が、少年にはされるがままになって尻尾を振っている。
 二人とも黙ったが、森の風は穏やかで心地良かった。




「傷はどうだ」
 そう尋ねたのは、それからまた二日目の夜だった。夕食を終えたあと、男は新しい葡萄酒の瓶を開けた。少年は暖炉の前の床に座っている。森から切り出してきた長い蔦を器用に編んで、兎の罠や籠を作っているのだった。その横で犬が長々と寝そべって寝息を立てていた。
「大丈夫です」
 その声はどこか不安の色を残していた。実のところ、彼の怪我があらかた癒えているのは男も知っている。傷も塞がり、歩くのも不自由はないようだった。現に今日は倒木を運ぶのに朝から何度も森と小屋とを往復したのだ。

 怪我が良くなるまで、と言った。
 だが、

「ぼうず。ここにいるか」
 思いも寄らなかったのか、その言葉に少年は俯きかけていた顔をはっと上げた。真っ直ぐ見つめてくる瞳には安堵と悲壮の入り混じった表情が見えた。二日前と同じ、子供には似合わない表情。
 同情とは違う。男にとって、必要以上に他人と関わる事は煩わしいはずだった。ただ、どことなく息子に似ているような気がした。それは、その若い面に今は居ない者の影を重ねたに過ぎない。
 失ったものばかりだ。自分はいつまでも年を取っていく。

 少年は弱く頭を振ると何かを堪えるように、しかししっかりと声を絞り出した。
「行きます」
 その言葉に、むしろ心中の重い石を退けられた心持になる。おう、と答えて男は錫のカップに残った酒を一息に呷った。
「行ってどうする」
 少しばかり挑むように問いかけると、少年の顔から迷いの色が消えた。
「知りたいことの―――答えを、探します」
「そうかい」
 昔似たようなやり取りをした。
「死なねぇ程度にやんな」
 自分は好きに生きてきた。息子もきっとそうだったろう。
 はい、と静かに返ってくる響きが懐かしい。
 妙なガキだよ、と口の中で呟いた時、犬が大きく欠伸をした。




 深夜弱い雨が降ったが、日が昇る前に止んだ。森には緑の匂いが涼と満ちている。薄く霞のかかった中に立つ少年の姿はどうにも心許無く見えた。二月待てば友人の馬車がまた来るはずだが、少年はすぐ発つと言って聞かなかった。いちど心を決めたら、動かずには居れないらしい。それはいかにも子供らしい疾さだ。
「南に二日も歩けばブランカだ。迷いやしねぇよ、ほとんど一本道だからな」
 携行食と水筒の入った小さな荷袋を手渡しながら、男はうっすらと轍の跡が残る道を指差した。それを受け取って、少年は頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
 妙にくすぐったくなって、男はふん、と鼻を鳴らして視線を逸らした。頭を掻こうとして、自分が左手に持っているものを思い出す。革の鞘に収められた、銅製の剣である。昨夜少年が寝入った後、物置の奥から探し出してきた。形見にと思いつつ長年埃に埋もれさせていたが、これなら息子も異議は無いだろう。
「持ってきな」
 ぐいと少年のほうへ突き出す。
「でも―――」
「俺のじゃねえ。倅のだ」
 受け取ろうか躊躇っている少年の手に強引に押し付け、
「要らねぇんだよ。持ってけ。手入れァ甘いが、使えねえ程じゃねぇだろ。城下の道具屋で売りゃあちったあ路銀の足しにしてくれるだろうぜ」
 そう一息に言い捨てた。少年は戸惑いながらも剣を取り直し、それをじっと眺めた。指が愛おしそうに古びた鞘を撫でる。
「……ありがとう」
「おう。……もう行きな」
 名残を惜しむような見送りはしたくない。客を追い立てるように手を払う。少年はもう一度深々と頭を下げ、男に背を向け歩き出した。が、二三歩進んだところでこちらを振り返り、言った。
「また来てもいいですか」
 気持ちの良い声だ。住んでいた村では、きっと誰もがその成長と将来を明るく見据えただろう、そういう声だった。
「怪我人の世話は勘弁だがな」
 いつの間にか男の足元まで来ていた犬が一声、吼えた。少年がちらりと笑った。
「また、来ます」
 若い旅人は背を向け、そして今度はもう振り返らなかった。




 ほどなく男は小屋に戻った。仕事道具をまとめ、それを持ってまた外に出る。傍らを歩く犬の頭をひとつ撫でて、森へ入っていった。
 いつものように。

 


END

2004.9.4

ウィンドウを閉じてください