それは他愛も無い出会いに過ぎなかった。




 夜だった。
 森の中を忍ぶように歩く姿があった。傾いた月と星の僅かな明りも木々の下まで照らしてはくれない。だが男の足取りは確かで、躓きもしなければ黒々と立ち塞がる幹にぶつかるような事もなかった。夜の闇を見通す彼の視覚は人間には備わっていない。男―――ピサロは、おそらく自分はこの地上世界を自由に歩くことの出来る数少ない、ひょっとしたら唯一の魔族であると思っていた。


 コナンベリーから砂漠地帯までは、南北に走る山脈に沿うように広い街道が続いている。少し前なら砂漠を越えてきた商隊、また反対にブランカ・エンドールへ向かう旅行者、アネイルへの湯治客など、季節を問わず街道には常に人の姿があった。しかし滅多に現われなかった魔物が姿を見せ始めた事により街道の賑わいも日毎に薄れ、夜はおろか日中でも旅人の姿はあまり見られなくなりつつある。
 そういう時勢ゆえ、当然呼び止められた。深夜、しかも本道を外れて進路を取るような旅人は見咎められて当然かも知れないが。
「軽装だな。……しかも一人か」
 胡散臭そうに松明をこちらに向ける男は二人。武装し、抜き身の剣を手にしている。その探るような視線は鋭く、声には警戒の色が濃かった。二人はアネイルの自警軍の斥候だと名乗った。年かさの方の男が胸に下げた小さな笛を二度、吹き鳴らす。本隊を呼んだらしい。笛をしまうと男はピサロに近づいて、問い立てた。
「このような夜中に―――何者だ? 湯治客か、商人か?」
「違う」
 ピサロは短く答えた。人間の旅人を装ってはいるものの、自分が何者であるかなどわざわざ説明する気にはならない。夜の旅を続けているのも慣れぬ日光を避けるためだったが、言ったところで理解はされないだろう。
「見ての通り旅の者だ」
「今の時期、夜一人でうろつく人間はおらん」
 ピサロの返答に男はふんと鼻を鳴らして剣を突き出した。
「ただの旅人にしては怪しい奴。顔を見せろ」
 偉ぶったもの言いと共に、剣の切先が目深に被ったフードをずらした。地底の居城でこんな真似をされた日には死さえ気付かせぬうちに首を飛ばしてやるのだが、ここでは勝手が違う。ピサロは好きなようにさせた。銀の髪が流れ、目元があらわになる。紅い瞳に睨めつけられ、男は僅かに怯んだようだった。が、また誤魔化すように鼻を鳴らす。
「珍しい、色だ」
 最近まで魔物の存在すらまともに見られなかった社会では、その特徴も知られていないのだろう。人間には珍しく見えるらしい目の色と長い髪の下に隠した耳を除いては、ピサロの容姿は人間と大して変わらない。
「用が無いならもう行くぞ」
 ピサロはフードを被り直し、まだ向けられている剣先を避けて歩き出した。だが男は慌てて剣を振り上げた。頭上の枝に刃が触れ、幾本かがばらばらと落ちてくる。
「おい、待て! 不審者に変わりはない、拘束させてもらう」
 大した力も無いくせにそこまで阻もうとする尊大な態度にピサロは苛立った。殺そうかとマントの下で剣の柄に手を掛けた時、街道の方から松明の群れが近づいてくるのが見えた。金属の触れ合う音が聞こえ、火に照らされた槍の穂先が明るく閃く。数人が何事か呼ばわっている。どうやら本隊のようだ。
 ピサロは軽く舌打ちした。おそらく全員を殺す事は容易い。しかし、そうするのは地上の魔物に己の存在を明らかにしてしまう事と同じである。地底での権力を手中に収めたとはいえ、この広すぎる地上の世界では死んだ魔王の息の掛かった残党がまだ勢力を保っているはずだ。デスパレスを落とす時までピサロが自らに課したのは世界に潜むこと、世界を見ることだった。一介の旅人である今、命に関わる危険に晒されぬ限りは、剣であれ魔法であれこの地上で目立つ事は避けなければならない。


 程無く現われた一団は十人程度の小さなものだった。先頭で隊を率いていた男が進み出て、ピサロに向き合う。
 若い男だった。
 夜の空よりも黒い目と髪の色。細面だが精悍で、意志の強そうな表情が印象深かった。斥候の二人から報告を受ける僅かな間も、視線はピサロから外さない。ピサロはというと、青年本人よりも、彼が身に纏っている甲冑の方に目が行った。濃緑のマントに隠されて細工はよく分からないが、その白銀の鈍く光る様は、闇の眷属が忌み嫌う波動を感じさせる。人間が施したものとは明らかに異なる護りの力。話に聞いた事しかないものを初めて目にして、ピサロは眉を顰めた。
 天空にあるべき聖なる武具と呼ばれるものが、一体幾つ地上に散っているのかピサロは知らない。ただ、それを身に付ける事の出来る人間がいるということに微かな驚きを覚えた。鎧から視線を上げると、青年は表情を緩めて軽く頭を下げた。
「旅の方。不躾な対応まことに失礼しました。ただ最近の事態が事態ゆえ、我々も夜間の警戒は厳重に執り行っているのです。どうかご容赦いただきたい」
 慇懃な謝罪だったが、その声はまだ厳しさを残していた。先程剣を付き付けた男は一団の中に戻ってこちらの様子を伺っており、まだ不満そうな表情をしている。青年は彼らに武器を収めるよう告げると、ピサロに向き直って言った。
「これ以上の厄介はご不快でしょうが、北へ向かわれるならアネイルを過ぎるまでは我々と同道していただく」
 思いがけない申し出に、それは確かに楽しくない厄介事だとピサロは思った。
「必要性を感じないな」
「そうでしょうか?」
 青年は口の端を上げた。
「貴方を我々の監視下に置くことで貴方の安全も保証されると思いますが。また我々の警戒のためにもそれが最善なのです。聞くところによれば―――」
 言葉を切った青年は一瞬躊躇った様子だったが、ピサロが黙って先を促すと思い切ったように口を開いた。
「……魔物の中には変化の術を使い、人を騙し惑わす輩もいるとか」
 今度はピサロが笑った。
「疑っているのか」
「有り得ないと断言できますか?」
「いいや」
 面白半分のピサロの返事に気を悪くしたのか、青年の表情に鋭さが増す。
「我々はここ一年アネイル周辺の夜間警邏を続けていますが、私の記憶にある限り、深更一人で旅をするような人間は貴方以外存じません。昼間ならともかく。失礼ながら、貴方は疑われても仕方の無い立場にあることを分かっていただかねば」
 青年の生真面目な言葉は一々もっともだが、少しばかりピサロをうんざりさせた。物腰は違えど、言っている事はさっきの男と変わらない。ピサロは嘆息した。
「ならば好きなようにするといい」
「では」
 青年はほっとしたような顔でピサロを促した。


 森を抜け、街道に出て北へ進路を取る。ピサロの隣を隊長の青年が歩き、数人が二人を囲んで歩を進めた。残りの戦士たちは銘々森に入り、街道から見えなくならない程度の距離を保ちつつ移動しているようだった。時々合図のように笛の音が聞こえ、他の分隊の斥候が青年に報告に現われる事もある。その度に青年は周りに指示を与え、これから向かう先や通り過ぎたらしい中継地へ使いを出すのだった。その采配にピサロは素直に感心した。
 一度短い休憩を取った以外は、ひたすら歩き続けた。その間青年は何かとピサロに話し掛けてきた。それは不審者に対するような尋問には程遠く、旅人の土産話を聞きたがる素朴な質問だった。警戒心を緩めてくれるのは有難いが、地上に出て間もないピサロにはそういった土産話は無いに等しい。今のように人間と長いこと接触を図ったことは無い上に、身を落ち着けている場所も人里離れている。東から旅して来たと言うピサロに対し青年は驚きを隠さなかった。
「別の大陸から船でやって来たものだとばかり思っていた」
 特に面白いものがあるわけではないとピサロが渋っても青年は未開の地の話を聞きたがるので、仕方なく古い原始の森や、岩山の地下に広がる麗しい水源を湛えた洞窟、自然のままに暮らすホビット族の話を少しだけ話してやった。ピサロは決して饒舌な語り手ではなかったが、それでも青年は嬉しそうに耳を傾けていた。
「ホビットのことは街の長老たちから聞いたことがあります。昔はわずかだが行き来があったとか……」
 言葉を切って青年はピサロの方をじろじろと眺めた。
「何だ」
「貴方はエルフではありませんか?」
 唐突な問いにピサロは面食らった。周りの戦士たちも笑い声を漏らす。
 エルフは滅多に姿を見せない希少な種族である。話に聞いた事はあっても実際の姿を見た事の無いピサロはきっぱりと否定した。
「何を根拠に」
「いや、失礼した。私もエルフに会った事はないのですが」
 青年はばつの悪そうな顔をして、少し癖のある黒髪を撫で付けた。それでもフードの奥のピサロの表情から目は離さない。
「貴方は何というか……長く時を経た空気を纏っているように感じたのです。見たところ私とさほど歳は変わらぬようだが」
 今度はピサロが驚いて青年を眺める番だった。そういう目で己を見る人間はこれまでいなかった。鋭い観察眼を持っている青年に少し興味を覚える。深い色を湛えたピサロの注視に、青年は戸惑ったように視線を外した。
「お聞き流しください。貴方の素性を探るつもりはありません」

 その時、西側の森の奥から鋭く笛の音が聞こえた。届く音は小さく、かなり離れているようだ。これまでの号笛とは異なり、何度か調子を変えて響いてくる。ピサロの聡い耳には遠く剣戟の音も入ってきた。青年は落ち着いた様子で近くの森に入っている仲間に声を掛け、幾人かを警笛の聞こえてきた方へ向かわせた。
「慣れたものだ」
 再び歩き出した時、ピサロは呟いた。青年は少し微笑んだがその表情には厳しさが戻っている。
「海岸付近の森に棲む小型のものならまだ可愛いものです。だがここ近年はあちらの、」
 と、右手に横たわる山の連なりを指差した。夜明けが近いらしく山際の空は黒から群青に色が変わっており、それが山脈の蔭を際立たせている。
「山脈を越えて来る魔物が後を断ちません。体躯は大きく、徒党を組んで、悪知恵にも長けています―――旅の途中、そういった連中には遭いはしませんでしたか」
 ピサロは、心がざわりと動くのを感じた。
「いや」
 首を振ったが、内心でほくそ笑む。

 意外だった。
 成果を待つには長い時間を要するだろうと覚悟していた事が、数年のうちにこういう形で経過として現れたのは運がいい。地底の魔物を地上に送り出し、交配によって新たな勢力を生み出す事を計画したのは他でもないピサロと、片腕のエビルプリーストであった。
 それを目の前の青年が知ったらどう思うだろうか? 予期せぬ絶望を与えてやろうかと暗澹とした愉悦が身体を巡ったが、表情に出す事はしなかった。
 まだだ。
 まだ、早い―――。

「先月も分隊がひとつ全滅させられました」
 唇を噛む青年に、ピサロは感情を押さえ、平静を装って、問うた。
「その連中は強いのか」
「無論。我々の様子でお分かりになりませんか」
 街に近づくにつれて、ピサロの鋭敏な感覚は街道の両脇、特に東側山麓の森に幾らかの気配が満ちているのを感じ取った。
「なるほど」
 やはり一筋縄でいく人間ではないようだ。
「その甲冑も見せ掛けではないらしいな」
 皮肉を込めた言葉ではあったが青年は微かに笑い、
「何度も命を救われました」
 と胸元をひとつ撫でた。さもあろう、とピサロはその夜目にも明るい輝きから目を反らせた。天空の加護の力が偉大であろうと、魔族にとっては不快以外の何物でもない。その出自か気にならぬでもないが、知ったところでおそらくピサロ一人の力でどうにかなる代物ではなかった。腹立たしい事だが。黙り込んだピサロを青年はもの言いたげに一瞥したものの、何も言わずに歩調を合わせた。




 幾つ目かの丘を越えたところで、ようやく眼下の平野にアネイルの街が見てとれた。既に空は半分ほどが青白く晴れ、深い群青は西の空に追いやられている。間も無く山脈の向こうから日が昇るだろう。長く伸びた山脈の影が、立ち昇る幾筋もの水蒸気の帯に淡い色を付けている。明るさを増していく空に、ピサロはともかく他の人間たちは少なからず力を得たようだった。やがて街道はアネイルの街へ向かう道と、広大なアネイル砂漠に向かう道に分かれる。


 分岐までやってくると一行は立ち止まった。仲間を先に行かせ、青年はピサロに向き直ってさて、と両手を広げた。
「これで貴方の潔白は証明された。監視は解きます。休息が必要なら街で宿をお取りするが……」
「構わなくていい」
 言葉尻を遮ってピサロは返す。青年はそれが予期した通りの答えだったかのように微笑んだ。少し残念そうにそうですか、と呟くと、その顔を北に向けた。
「砂漠の口へは昼頃にも着けるでしょう。最近は不定期だが、乗合の馬車も出ています」
「ああ」
 青年は右手を差し出した。ピサロはその行動の意味が理解できずに目の前の顔を見返したが、なおも笑って差し出してくる。訳が分からないなりにピサロが伸ばした右手はそのまま掴まれ、軽く振られた。
「妙な奴だな」
 率直な感想を口に出すと、また笑う。
「貴方も不思議な方だ」
 確かめるようにもう一度強く握り、青年は手を離した。
「では、無事に旅を続けられますよう」

 一礼すると青年は背を向け、街への道を取った。また何か指示を出しているらしく、仲間の二人ばかりが再び来た道を戻って行く。ピサロは何となくその様子を見送った。青年はその姿が木立の間に消える寸前一度だけ振り返り、ピサロの姿を認めると手を挙げた。射し始めた陽光に煌いた白銀はピサロの目を細めさせたが、不思議と嫌なものではなかった。


 青年の姿が見えなくなって、ピサロはようやく北へ足を向けた。日を避けようにも森は終わり、山脈の北端の裾野に広がる扇状地はなだらかな草原地帯に変わりつつある。ピサロはフードを深く被り直し、ともかく砂漠まで急ぐ事にした。周りに人間の気配も魔物の気配も感じられないのは気が楽だった。先程までの奇妙な道行は退屈ではなかったがいささか窮屈にも思えたのだ。
 妙な男だった。そういえば名も知らない。彼は名乗らなかったし、こちらの名も尋ねなかった。気安げな様子は見せていたが、それがこちらの隙を引き出すためのものだとしたら、侮れない人間もいるものだ。この夜の事で、人間も楽観できる相手ばかりではないと心に刻み付ける。
 それなら、やはり殺しておくべきだったのではないか、そうも思った。
 ああいった人間は後の憂いになる。そうなる前に根を絶っておいても良かったのかも知れない。だが、ピサロの話に耳を傾ける若者の朴訥な笑顔を思い出すと、何故か引き返す気分にはならなかった。天空の加護を受けた鎧があそこにあり、それを纏う者が居る。それが分かっただけでも十分な収穫だと、自らに言い聞かせる。
 時が来れば、支配の対象になる人間たち。だがもし、あの青年のように有能な者を従わせられるなら、その才を用いてみるのもひとつの手段かも知れぬ―――。そこまで思い至ってピサロは考えるのをやめた。何を先走った夢想をしているのか。密かに地上に出て、まだ数ヶ月しか経っていない身で何が分かろう。焦る必要は無い、まずは見極める事だ。世界と、そこに跋扈する人間たちを。


 日が高くなり、砂混じりの乾いた風が熱を運んで来る。



 ふと、別れ際青年が握った手の感触が甦る。
 ピサロはその時やっと、人間に触れたのはそれが初めてであることに気付いた。


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