一年ほどが過ぎ、ピサロの姿は再びアネイル近くにあった。

 砂漠地帯には珍しく、雨期でもないのに黒雲が重く空を覆い始めている。肌に纏わり付く湿った空気で雨の近さを知るが、これから横断する草原では雨露から守ってくれる庇は望めそうにない。星空が狭まり、夜が更に黒さを増していく。


 この一年、ピサロはひたすら隠密に旅を続けた。
 砂漠を越え、ブランカ、エンドール、ボンモールを巡り、サントハイム大陸まで足を伸ばした。それらの国ではまだ魔物は人の目を逃れて数少なく、夜ですら滅多には現れない。何処に行っても人間の姿があり、集落があり、神の名の加護の下に生活が営まれていた。
 脆弱な人間の、無駄に満たされた世界。
 だが疎ましく思うことの多い旅の中で、それでも得るものはあった。
 ブランカの天女の伝説。
 人間の手によるエルフ狩りの横行。
 何よりピサロの興味を惹いたのは、世の昏きに現れるという勇者の伝承だった。根拠もない噂話の域を出ないものではあったが、これから変わっていくはずの人間世界の中では記憶に留めていてもいい話には違いない。
 思い出したのは、アネイルで出会った黒髪の青年。あの白銀の鎧を身に着けた者なら、勇者たり得る存在であってもおかしくはないと。ロザリーヒルへ戻る途上とはいえ、ピサロの足を砂の原に向けたのはそういった予感のようなものでもあった。


 やがて星の見えなくなった空に閃光が走り、一瞬の後に天を裂くような雷鳴が轟く。空を仰いだピサロの頬に水滴が落ちてきた。見る間に雨の幕が草原を覆っていく様はいっそ清々しいほどだ。洗われていく大地が水を吸い、緑と土の香りが満ちる。ピサロは鞣革のマントの間から両手を晒し、少しの間その肌が濡れるに任せた。腕に伝おうとする雫を舐め取る。雨は嫌いではなかった。地底では感じる事のできない空の移ろいや大気の変化は、慣れてしまえば寧ろ好ましくさえある。
 激しかったのは最初の数刻で、雨はやがて霧のように細かいものになっていった。相変わらず雲は掛かっているものの、薄く千切れた合間から時折星が覗く事もあった。水気を含んだ草地もピサロの足を鈍らせる事は無く、既に平原も半分以上過ぎていた。砂漠を抜けたのが日の変わる頃だった事を考えると、そろそろ夜明けが近い。ほぼ二日近く歩き通しだったピサロはさすがに疲労を覚えた。
 どこぞの茂みの蔭で休息を取るか、それとも。
 ふと、またあの青年の姿が思い浮かぶ。人間の街に宿を求める事は滅多に無かったが、アネイルまで行けば彼の様子も知れる。きっと今も街道の警備に忙しくしているのだろう。ピサロは軽く息を吐いてまた歩き出した。

 一年前と同じく、相変わらず他に旅人はいない。明け方ゆえか魔物の気配も無い。濡れた草を踏む音、霧雨の密やかな響きだけが終わる夜を満たしている。だが歩を進めるにつれ、ピサロは空気の異様さを感じ始めた。張り詰めていない、かといって弛んでもいない、完全に切れてしまった静けさ。ピサロは歩みを止めた。周りを見やり、感覚を研ぎ澄ませるとほんの僅か、鼻孔につくものがあった。

 ―――血臭。

 ピサロは本道を外れ、山脈側の茂みの深い方へ足を向けた。そう離れていない所に見つけたのはアローインプの集団だった。すべて死んでいる。斬られたものもあれば、鋼の鏃に射抜かれたものもある。ざっと見ただけでも百近い小人の死骸の間には、いくつか人間の姿も見られた。毒矢にやられたのだろう、肌が赤紫に変色している。状況から想像する限り、山へ逃れようとする劣勢のインプの群れに人間の追撃がかかったらしい。ピサロはそう判断した。
 戦か。
 だがそれにしては静かすぎる。踵を返して本道に戻り、先を急ぐ。丘とも呼べない起伏の向こうは緩やかに下り、平坦に広がった草原の続きがあり、その遠くない先にアネイルの街があるはずだった。空が濃紺の帳の色を変え始めた。微かな遠雷。ピサロは傾斜を登りながら思いを巡らせた。街は襲われたのだろうか? だとすれば街から離れたここまで追手を向けるのは難しい。しかし、攻撃を退けながら軍を編成し、尚且つ無秩序な魔物の群れを一掃できるような広い場所へ誘い出す事が可能なら。それだけの指揮を執れる者が居たとしたら――……。冬にはまだ早すぎるというのに、吐く息が白い。その静寂に大気の温度さえもが存在を拒むかのようだった。もしかしたら既に魔物も人間も撤退したのかとも思ったが、徐々に濃くなる血の臭いにその考えも消された。ピサロは殆ど駆けるように最後の斜面を登りきった。


 そこには想像していた通りの光景が広がっていた。
 草原を埋める、魔物と、人間の亡骸。その上を薄く覆う仄白い靄。
 これだけ夥しい数の肉体が横たわっていようと、何も無いかのような死の沈黙が全てを支配している。ピサロは特に感慨も湧かず、それを眺め渡した。地底では何度となく見てきた、死の風景。それは同族同士の争いの果てのものであったが、これは違う。人間だ。人間の戦場というものは初めて見た。
 代わり映えもせず、皆、死んでいる。血と泥にまみれて命を終えている。死は対等か、と小さく呟いてピサロは口角を上げ、足を踏み出した。

 一歩ごとに赤く染まった水が撥ねる。戦の熱はもはや冷め、触れてみた屍はどれも硬直し始めていた。夜のうちに全てが終わったらしい。緑の根元を縫って流れ出した先の血溜りだけが鮮やかだった。
 戦場に下りて改めて見ると、人間よりも魔物の死骸の数の方がずっと多いようだった。魔物の中には山脈の向こうへ逃げ切った者もいるかも知れない。知性はともあれ、感覚の鋭さに於いては人間よりずっと優れている魔物達が簡単に殲滅されるとは思えなかった。それにしても見慣れぬ種類が多い。体躯も、小型のスライム族から大型の竜族まで様々である。ピサロの預り知らぬ所で生殖の枝分かれは進んでいるらしい。エビルプリーストに知らせてやったら喜ぶだろう。大きく鋭い爪を持ったハンババの巨体に無数に刺さった鉄の槍を一本引き抜き、ピサロは足元に倒れている男を見た。飛ばされたか喰われたか、首から上が無かった。
 人間達は銘々が不揃いの甲冑に身を包み、様々な場所に散って死んでいた。胴体を引き千切られた者、頭を潰された者、挑んで心臓を抉られた者、逃げようとして背中から引き裂かれた者。この世界、この時代に人間たちが戦馴れなどしていようはずもない。軍といっても高が知れている。
 街の方角に目を向けたが、さすがに離れすぎているため様子は窺えない。だが占領されてはいないだろうとピサロは考えた。街が落ちたなら魔物達ももう少し堂々とのさばっていてもいいはずだ。門を固く閉じて、新たな襲撃に怯えながら、朝が来るのをじっと待っているのだろうか。朝の陽に希望を得たとて、その光の下に晒されるのは夜の間血に染められた大地だというのに。光に何の救いを見出すというのか。神の名に何の喜びがあるというのか。見るのは、死のみだ。
 滲み出てくる苛立ちを殺しながら、ピサロは静まり返った戦場を歩き回った。もはや魔物に目をやる事は無かった。邪魔ならば足を掛け、踏み越える。そして死んだ人間の戦士たちの顔を覗いて行く。うつ伏せて息絶えていれば、身体を返して確かめる。彼等の纏った鎧もひとつひとつ確認した。
 死んではいないかも知れない。それどころか、街に戻って再び軍を立て直しているかも知れない。だが、拭えない予感があった。
 ピサロは根気強くただ一人の人間を探し続けた。



 夜は去りかけ、雲と靄に遮られていても薄蒼い明るさが満ち始める。
 平地が終わり、渓流が森に流れ込む近くまでやって来た。おそらく最も戦闘の激しい場所だったのだろう、人間も魔物も皆酷く深い傷を負っている。折り重なった骸は渓流の流れを止め、澱みの色を変えていた。
 ピサロはその中にようやく彼を見つけた。
 青年は味方の死骸に挟まれるように、アンクルホーンの巨躯の下敷きになって倒れていた。顔と右肩、右腕だけが覗いている。その部分を見る限り傷を負っている様子は無い。右手に握られた剣は柄元から折れていた。傍らに膝を突くと、微かな息遣いが聞き取れた。生存の証に、何故か安堵する。ピサロは立ち上がり、青年の上に圧し掛かっている巨大な亡骸に目を向けた。
 体高だけでもピサロの倍近く、重さは数倍もある硬直したアンクルホーンの身体を退けるのはピサロにも難しい事だった。背中でその巨体を押して浮かせ、剣を支えにしている間に青年の身体を引っぱり出す。たったそれだけの作業に随分時間を要した。魔物の骸を再び倒した時、その喉に折れた刃が深々と突き刺さっているのが見えた。

 少し離れた草の上に青年の身体を横たえる。くすんだ光芒を放つ白銀の鎧は血に汚れていたが、疵ひとつ付いていない。しかしその下の人間の肉体は、容赦無い攻撃に対してあまりに脆かった。下肢は鎧われた所を避けて何度も執拗に切りつけられた傷があった。脇腹の大きな刺し傷は背中まで貫通しており、今まで掛かっていた圧力が傷口を酷く裂いている。アンクルホーンの角によるそれが致命傷である事は一目で見て取れた。青年の最後の相手は死んだ後まで彼の骨を砕き、傷を広げ、彼を死に近づけたのだろう。新たに流れ出した血が草を濡らす。
 考えるより先にピサロの口を突いて出たのは、強力な治癒の呪文だった。指先で青年の身体に加えられた傷に触れながら魔法を完成させていく。だが一向に傷が塞がる様子は無い。しばらく続けていたが、やがてピサロは詠唱を止めた。溜息が白く濁る。
 助からない。
 もはや呪文に応じられるほどの生命力が残っていないのだ。


 弱くとも絶え間無かった雨は、靄に溶けるようにして止んだ。
 改めて青年の顔を見下ろす。泥と血で汚れてはいてもその表情に苦悶の色は無く、眠っているように穏やかに見えた。ピサロは濡れたその顔を袖の端で拭ってやった。掌で頬に触れると、既にその温かみは失われつつあった。
 その時、青年は突然目を開けた。驚いたピサロが手を引くと、焦点の定まらない目でゆっくりとそれを追う。次にフードに隠れたピサロの顔に目を向けた。束の間眺め、やがて微かに笑みを浮かべた。唇が震え、おそらく何か言おうとしたのだろう、掠れた息が漏れた。苦しげに眉根が寄る。
「喋るな」
 とは言ったものの、制止の言葉も聞こえているのかどうか。青年はまた口を利こうとしたが、そこから流れ出たのは言葉ではなく赤い雫。咳込む力も無いらしく、僅かに反ったその喉が形容し難い嫌な音を鳴らす。ピサロは咄嗟に口付けると青年の喉に溢れた血を除き、己の口腔に受け止めた。温いそれを吐き出し、言い聞かせるように顔を寄せる。
「まだ生きていたければ黙っていろ」
 青年の身動きひとつひとつが残り少ない命を削っていく事は容易に思い至る。だが意識が朦朧としているのか、あるいは全て理解しているのか、青年はぼんやりと目の前のピサロを眺めていた。肺腑をやられているらしく、呼吸に濁った音が混ざり始めた。呪文が効かない今ピサロに出来る事といえば、せめて胸元の枷を解いてやるぐらいしかない。
 胸当ての留め具に指を掛けると、僅かだが痺れるような感覚があった。天空の武具に魔族が触れるなど、前代未聞に違いない。ピサロは笑った。
 心の中で誰ともなく、多分、天の総意というものに近い何かに話し掛ける。
 拒むがいい。いい気味だ、と。

 肩の部位と篭手を外し、あまり身体に負担を掛けないように慎重に胸当てを外す。天空の加護を受けたそれを剥いでいく行為はある種の陵辱のようで小気味良かったが、それと青年の死はまったく異なる感情を伴った。およそ説明のつかない思い。
 ピサロは我ながら無駄な事をしていると思った。魔族の長になろうという者が、ただ死に行くだけの人間に随分と甲斐甲斐しい事だ。たかだか百年程度の寿命しか持たぬ、脆弱な人間に。
 それでも、この青年が手放そうとしている生は繋ぎとめておきたかった。
 上半身の甲冑を取り除き、再びゆっくりと身体を寝かせる。青年は鎧の下に薄手の綿入れを着ていたが、それも血で黒く染まっていた。窮屈さから解放され、多少は呼吸が楽になったようだった。声を出さずに青年の唇が動いた。読み取りにくいがどうやら礼らしい。ピサロは腰を下ろし、黙ってその顔に見入った。
 聞きたい事が色々ある。鎧を如何にして手に入れたのか、彼と天空の力とどういう関係があるのか、魔物たちの襲撃の様子、この一年の消息、何をどこまで知っているのか。そして何より勇者という存在を―――。様々な疑問が脳裏に浮かび、消えていった。今となっては聞いても答える事は出来ないだろうから。
 「勇者」と呼ばれたかも知れない人間。ただの人間だったものはピサロに触れ、語りかけ、例え偽りの振舞いだったとしても、それが印象を深くした。一年前に感じたように、後の憂いは殺しておくべきだという気持ちは今もある。それが期せずして、誰に命じた事でもなく、こんなにもあっさりと彼の上に死が訪れようとは。
 かといって戦士に対して悲哀の情を抱くわけでもなかった。青年の黒い髪に指を差し入れ、何度か梳く。潰えた予感に幾許かの失望を覚えてピサロは呟いた。
「虚しいな」

 そうするうちに苦痛が戻ってきたのか、青年の呼吸がまた乱れ始めた。口の端から赤い筋が伝う。ピサロは少し逡巡した後、帯から短刀を抜き取ると暗く光る刃を相手の首筋にあてがった。青年は拒む様子も見せず大儀そうに目を閉じて、またゆっくり開く。そこには以前見せた探るような色があった。もう隠す必要も無いと思い、ピサロはフードを下ろした。長い銀の髪は雨を吸って湿り、それでもしなやかさは失わずに青年の目の前に流れ落ちる。紅い瞳も、人間とは異なる尖った耳朶も晒した。
 青年は一瞬目を見開いた。そして、本当に僅かな、表情の変化。笑ったようだった。それは自嘲か、安堵か。
「何を笑う?」
 訊いた後で、まだ己がエルフだと勘違いされているのだろうかと訝った。しかしそれ以上青年が表情らしいものを面に出す事は無かった。
 ピサロは短刀を青年の首に添えたまま躊躇した。それは戸惑いか、でなければ言い尽くせない喜びに近いかも知れない。

 初めて、人間を、この手で。

 何を知る事も無く、もう知る必要も無い。
 ただ、殺す。

 風が流れ、覗き込んだ目の黒が藍に変わる。それは瞳に映り込んだ光りの変化だった。ピサロは顔を上げた。

 辺りは蒼に染まっていた。
 夜が死んで朝を迎えようとする、どちらにも属さないほんの一時の世界。
 山裾の霧と平野に広がる霞は幽かな光彩を和らげ、土も、水も、草も、影も、足元に流れる血さえ、その全てが静かに蒼を含んでいた。清浄、という言葉はピサロには縁が薄いが、この冷たく黙した風景にはその言葉が相応しいと思った。見ている間にも蒼は薄れて行き、暁の腕が雲の向こうで始まりの光を放つ。そして一瞬だけの世界は絶えた。
 ピサロは再び青年に目を向けた。身体を屈め、まだ移り変わる空の様子を見ている彼の視界を奪う。躊躇いは霧散し、短剣を持ち直したところでピサロは口を開いた。
「人間よ。名は何という」
 それは今まで浮かんだ疑問とは程遠く、何の得にもならない問いであったが。
 証が欲しかった。
 聞こえないのか、青年は感情を映さない目を細めた。多くの血を失い、目も霞んでいるのかも知れぬ。既にその呼吸は浅く、途切れがちになっていた。ピサロは抱き込むように彼の上に覆い被さり、耳元に唇を寄せてもう一度問うた。強く。
「名を」
 顔の脇で空気が動いた。それは濁った息でしかなかったものの、唇の動きに合わせて微妙に異なる音を取る。ピサロは頷き、少し顔を上げて青年の瞳を覗き込んだ。


「リバスト」

 確かめるように一度呼ぶと、青年は弱々しく息を吐いた。応えだったのかも分からないがピサロはそう受け取った。左手でその目を覆い、右手の短刀を頸に当てる。
「覚えておこう」
 戦士の最後の呼吸が頬を擽る。

 刃は、深く、一息に引かれた。


>>NEXT