初夜

 
 自分もいつか恋をして、愛した人と一緒になるものだと、そう思っていた。
 その憧れも、恋だったかもしれない想いもいつからか風化し、砂のように崩れ去った。失うまいと掻き集めようとしても、指の間から逃げていく。同じかたちに戻せない。

 待って。

 父さん、母さん、

 シンシア、

 あなたたちは誰。
 僕は誰。
 僕なんかの為に死ぬことなかったのに。

 だって僕は―――……。

「……嫌だ」
「嫌ならもっと派手に抵抗してみろ」
 背中にひやりと堅い壁の感触。ユーリルはやや緊張した顔で目の前の銀髪の魔族を睨みつけた。ピサロはユーリルの顔の両側に手を付き、動きを封じている。触れられているわけではないので逃げようと思えば出来るだろうが、急な事態に足が強張って動かない。畜生。ユーリルは心の中で毒を吐いた。



 数分前。
 食事を終え、自分の部屋に戻ろうとしたところでマーニャに呼び止められた。外套を羽織り、すでに出掛ける準備万端の彼女は周りに誰もいないことを確認すると、ユーリルに向かって手を合わせた。
「1000……いや、500でいいわ。お願いっ」
「……今から行くわけ?」
「朝になる前には戻ってくるわよ」
 だからホラ、とマーニャは掌をひらひらとユーリルの前で振る。それが人に無心する態度かとも思ったが、彼女は出会った時から万事この調子なので妙に慣れてしまった。ユーリルはポケットを探った。100ゴールド銀貨が3枚、これだけだ。一行の財布の紐を握っているミネアには倹約を言い渡されているし、ユーリル自身もあまり金銭を持たない。これだけしかない、と言ってユーリルは300ゴールドを見せた。
「しみったれてるわね」
「じゃ、貸してあげない」
 仕舞おうとした掌からゴールドをひったくると、マーニャは素早くユーリルの頬に唇を押し付け、
「足りない分はトルネコから借りるわ。ありがと、愛してるわよー」
 と言って小走りに廊下を曲がっていった。倍にして返すわ、という捨て台詞が聞こえてきたが、今まで一度だって返してもらったことはない。戻ってきたら借金を全額請求しようと考えながらユーリルは自分の部屋の扉を開けた。
 部屋に一歩入った瞬間に殺気ともとれる気配を感じて、ユーリルは反射的に身を翻そうとした。だが何者かに腕を掴まれ、信じ難い力で壁に押さえつけられる。その衝撃で一瞬息が詰まった。痛みに呻く唇に柔らかな感触があり、次に聞き憶えのある声が耳に入ってきた。
「勘はいいな」
 声の主を察し、ユーリルはまた呻いた。
 ……鍵を掛けておくんだった。



 さっきまでの暖かな心地はどこへ行ったのか、ユーリルは心が急速に冷えるのが分かった。
 窓から入ってくる街の灯りと、暗さに慣れてきた目でようやく部屋の様子が見える。確かに自分の部屋だ。剣も盾も……荷物は全部ある。余計なものはこの招かざる侵入者だけ。
「やめろ」
 再度、拒否する。何に対する拒否なのか自分でも漠然としていたが、どう考えても歓迎できる展開になるとは思えなかった。退路を塞ぐピサロの左腕を掴んで、力を込める。腕はすぐに壁から外れたが、それを待っていたかのように今度は首に廻され、ぐっと顔を寄せられた。淡い逆光でピサロの表情は分からない。が、おそらく小馬鹿にしたような笑みを浮かべているに違いなかった。
「その程度で」
 ユーリルは身悶えたものの、今度は完全に捕われ、しかも背中も壁に押し付けられている。逃げようがない。この細身のどこにそんな力があるのかユーリルはいつも不思議に思う。あの身の丈ほどもある長大な剣の扱いといい、魔族の王には明らかに人間の常識を逸脱した力があった。ふと余計な事を考えているうちにピサロの顔が近づく。せめて口付けから逃れようと、顔を背けた。それでも横を向いた首の付根、耳の下辺りに吸い付かれ、ぞくりとした感覚が背中を降りた。ピサロは続けざまに耳朶を噛んでくる。ユーリルは震え、力無くピサロの胸を押す。
「やめてくれ……頼むから……」
 弱々しい抵抗の声にピサロは少しだけ身体を離した。
「先達てとは心持ちが違うか」
 静かに問いかけられ、顔を背けたままユーリルは顔を赤くした。
 たぶん違わない。
 自分の感情は一切変わっていない、と思う。

 キングレオで情報を探す道程で、コーミズに程近い森の中で野宿したのはつい先日のことだ。
 その夜、ユーリルはピサロに今思い出しても顔を覆いたくなるような醜態を晒してしまった。自分の弱みを。感情の濁流を。魔王を殺せぬ自らを責め、勇者であることを拒み、運命を呪った。己の死を願った。その時、縋れるものはピサロしかいなかった。自分にその混沌を見出させたのは彼だというのに。
 本当に、あの時、あの瞬間だけは思ったのだ。どうなってもいいと。天の雷に打たれてもいいと。だが、一夜明けてみると、身の程を弁えぬ愚かな行為としか思えなかった。あれは一時の気の迷い。そう思いたかった。事実、そう思おうとした。あれから出来る限り、今まで以上にピサロを避け、ほとんど言葉も交わしていない。これまで、ユーリルがピサロに対して時に無下な態度を取ることは少なくなかったので、仲間にも特に気にはされなかった。ピサロも何事も無かったかのように振舞っていた。それでも時々、ふとした拍子に目が合ったりすると、ユーリルは心がざわつくのを覚えた。
 それは壊れかけた憎しみであり、行き場の無い怒りであり、醜い嫉妬であった。
 それはピサロに対して。自分に対して。様々なものに対して。
 結局何も変わっていない。相変わらず心の中に澱が溜まっている。
 答えが、無い。
 癒せない。
 あの時知ったものといえば、自分自身の弱さとピサロに与えられたほんの一時の快楽の甘さだけだ。
 もしも。また求められたら。
 どうすれば―――。
 それが、今だ。

 ユーリルは首を振った。
「なんで僕と……」
 何と言っていいか分からなかったので言葉を濁したが、意図するところはピサロに伝わったようだ。
「言わなかったか。抱きたくなったから抱くと」
 揺るぎのない答え。気恥ずかしさに苛々した。だいたいそれは理由と言えるのか。あの夜の感触を思い出してユーリルはまた耳まで熱くなるのを感じた。

 あれは嫌悪ではなかった。
 それが許せない。
 その瞬間だけ、自分の感情が攫われるような気がして心地良かった。何も考えずにすんだ。
 それを認めたくない。
 望んではいけない相手のはずだ。浅ましい慾のはずだ。
 だから避けていた。

 たとえ心の奥底でそれを――――待っていたとしても。



 瞼にそっと口付けられる。薄い唇が頬を滑り、顎に軽く歯を立てた。ユーリルは少し身を捩ってそれから逃れた。
「優しくするな」
 ピサロは愉快そうに、喉の奥で笑った。
「乱暴にされるのが好きか」
 ユーリルは絶句した。そういうことを言ってるんじゃない、反論しかけて開いた唇は、噛み付くような勢いでピサロに奪われた。思わず肩に爪を立てる。
「んん、――……」
 乱暴なのはそこまでだった。舌を絡め取られ、その口付けは嫌になるほど長く、優しかった。

 ああ、もう。
 やめてくれよ。




    ……流される…… 









 そういう行為があることは知っている。
 自分もいつか、愛した人とそうなるものだと信じてやまなかった。
 だが今の自分の状況は、かつて抱いていた理想とは遠くかけ離れたものだ。

「……やっぱり、」
 嫌だ、と言う語尾に合わせてピサロは却下した。
「何を今さら」
 窓際の寝台に仰向けられ、ピサロに組み敷かれた状態ではどうにも説得力がない。外からの灯りで顔がよく見える。今さらのように羞恥を覚えて、ユーリルはそっぽを向いた。あらわな首に口付けが降りてくる。息を殺してはみたが、首筋をゆっくりとなぞられ鎖骨に舌が這うと、耐え切れずに息を吐いた。
 違う。
 乱暴なのも御免だが、こうも優しい愛撫には却って戸惑いを覚える。思考に余裕が出来てしまうのだ。もっと、考える暇もなく引き倒して、奪ってほしいと思う。感情がどこかへ掻き消えてしまうほど激しく。だがそれを自分から求めることは、理性が許さなかった。どこかに残っている勇者としての、誇り。目を閉じ、何も考えないように努力していた。と、上着にピサロの手がかかる。思わず身を堅くした。
「あ、待っ―――」
 抗議は許さないとばかりに唇が塞がれた。深く口付けられ、わずかな隙間から息が漏れた。頭の後ろから背中まで痺れるような、あの感覚。所在無く敷布の上に倒れていたユーリルの手はピサロの肩を押さえた。その間も上着はたくし上げられて、唇が離れた隙に器用に脱がされてしまった。ユーリルは状況も忘れて妙に感心した。剥き出しの肌に外気が触れ、微かに身を震わせる。そのままピサロの手は下肢に伸びようとした。されるがままになるのも癪だと思い、ユーリルはピサロの黒衣の襟を掴んで引っ張った。動きを留められ、ピサロは少年の顔を窺う。
「……脱いでよ」
 ピサロは微かに笑った。しょうがない、とでも言いたげに。黙って上体を起こし、慣れた手つきで帯を解く。それを床に投げ、弛んだ上衣をするりと落とした。髪を押さえている布を取り払うと長い銀糸が額に落ちかかる。それはしなやかと言うよりも痩せぎすで、無駄な肉だけを削ぎ落としたような身体だった。髪も肌も白いので、射竦めるような紅い目だけが異様に目立つ。

 ユーリルはずっと昔に父と見た野生の狼を思い出した。痩せて、年老いた大きな狼。
『あいつは人間には決して馴れないんだよ』
 自ら近寄ることがない。
 人間の手から与えられたものは一切口にしない。
 群れることのない、孤高の。
『寂しくないの?』と幼いユーリルは訊いた。


 ユーリルがまじまじと見ているので、ピサロはまた口の端を上げた。
「羽や尻尾が生えていなくて残念だったか?」
「そうかもね」
 適当に答える。今思ったことは言うまいと思った。
 ピサロの体重を感じ、直に触れた肌が熱かった。胸元を辿る手に、冷静を装っても心臓が跳ね上がるのは隠せない。ユーリルは僅かに身を引いた。ピサロの背に回そうとした腕を止め、手を握り締める。
 求めたら、縋ったら。
 戻れない。

 今更?

 いや、考えるのは止めよう。今だけ。今だけでも。




 でも。




 駄目だ。考えるな。
 それとも狂ってしまわない限り、感情など完全に消せはしないのか?
 狂えるものなら……。

 嗚呼。

 ……これは裏切りか。
 僕を生かしてくれた人たちへの。

 あなたたちは誰だったのか。
 僕は何だったのか。
 どうして生かされたのか。
 分かっているはずなのに、認めたくない。

 ユーリルは誰ともなく祈った。
 僕を許してくださいと。
 そして決して許さないでくださいと。

 ならば今、殺そうか。
 その細い首を締め上げようか。

 結局そこに行き着いてしまう。
 




 ユーリルは魔王の首に両手をかけた。少しだけ力を込める。
「笑うな」
 ピサロは笑っていた。この男は僕が殺せないと知っている。知っているのに殺させようと無防備だ。
「笑うな……」
 手を緩める。そのままピサロの首に両腕を回し、黙って目を閉じた。痛いくらいの暗闇がユーリルを包む。ただピサロの身体だけが確かなものだった。手が髪を撫でるのを感じ、額に口付けられるのが分かった。
 

 この行為が終わるまで、目を開くまい。
 ユーリルは慣れぬ快楽の波が感情を攫うのを待った。



END

2002.2.13

おまけと駄文>>